タイトルは加藤諦三氏の言葉より。



最近、氏の自己啓発所・心理学書を呼んでいる。
その中で自分に足りなかった事柄や出来事が示されていた。

僕は甘えることが出来なかった人間だ。

甘えることを家族機能的に、個人的に許さなかった人間だ。
それはもともと僕自身が資質的に抱いて産まれてきた事と家族機能、環境的に許されなかった事なのだろうとここ数日、気づいた。

ニュートラルにどちらに考えるかどうかはおいておいて、もっと感情を出せたら今こうしてこの文章と呼べるかどうかわからない代物のために時間を割いてはいないのだろうと思うのだが、アナタはどう考えるだろうか。
そして僕は周期的に心理的な壁にぶち当たる。
そのたびに空虚な心をどうにかして生めようと努めるのだが、それは絶対に叶わないとき納期が着いた。もちろん、以前から認識をしていたのだがそれを認めることが出来ずに今日まで、示されていた判っていた答えを毎日差し戻していたんだ。

僕の家族は一般的な家族より多くて、そして今も団地住まいで。
それで家の中は片付いた状態がない生活空間で住んでいて、居間でこそ兄姉たちが家から巣立って家庭を持ち、保って。実家と呼ばれる団地にいる人数は少なくなったがそれでも狭いと感じる。

僕が一番ゲームをしていたころ、友達を家に招いて遊びたかったころ、そのすべての誘いは母親の「ごめんね」という一言だけで片付けられてしまった。当時の僕も、今現在の僕もどうしようもなく悲しい。友達の家は大家族ではないけれど一戸建てで一人部屋もある。まぁ、この辺は家族が多い家庭で育った人なら誰しも思うことではあろう。けど、今訴えたいのは悲しいという主張だ、正義だ。

何度も聞いてみては「ごめんね」と言われて、僕は「どこの家に集まる」かという話に何度も悔しくて、悲しくて、したたかに自らの口から友達に「ごめんね」というしかなかった。僕は辛抱強かったし、甘えたことを”家族の事情”から言わなかった。後の兄姉の結婚の理由にしても。

だからこそ、通らないであろうけれどと思い考えながら母親に友達を連れてきても良いかと聞いたんだ!

この他人からの視点をメタ認知すれば、この主張は稚拙なのだろうと考える。
しかし、僕はこの主張をどうしても通したかった。けれども、通らなかった。
…甘えとは一見、他人からすれば幼稚な事柄と捉えられるかもしれないが、”甘えたい”甘える”といった行動を起こしている人間からすれば、何ににも替え難い行動なのである!!

自己内省すれば、僕は男で感情表現や言葉の出力は女性と比べて少ない。けれども、頭の中は男性性と女性性の半分ずつを有していて。男性であるけれど、女性性が一般的な男からすれば高い。言いたいことは、感情を表現するよりも感情のほうが溢れてしまって感情を処理を出来ない事だ。






ここ何ヶ月の文章を時間があれば見返してほしい。
きっと、今日まで”僕”という一人称を使ってなかった筈だから。



・・・・にしても、体の調子と物事と発達の三つをクリアして次のステップに進めるようにするとは守護霊、はたまた世界の法則は無理難題を仰る。



          「認めれば、道は開けます」


コメント

ろてん
ろてん
2010年10月16日0:18

きょうたまたま図書館で、加藤諦三さんの本を見つけ早速借りてきました。その名前を本棚の中に見つけた時に、sapphireさんのことが頭に浮かびまして(笑)
ちなみに「『甘え』の心理」という本です。「甘え」というものが人の発達に及ぼす影響は、はかり知れないものなんですね。そしてわたくしもまだまだ人に甘えたい盛りでございます^^

お体に気を付けて・・・。

saphir
2010年10月16日1:36

ろてんさん。

浮かんじゃいました?sapphireって(笑)

そうなんですよ!
そうそう、「甘え」もとい「欲求」を十分に満たされた人間は理想的な人に近づくように発達を自身に促すようにしますから、だからこそ「甘え」を言える事や環境が大事、なんですよね。(^^

幼児期の「泣き」は(大人になっても)最大の注意力・発信力を有しているのにそれを無視をすることは幼児に取って死と同義。自然界では親とはぐれた子は必死になって泣いて親を探して、見付からなければ死が待つだけ。

それらを考えたら、「甘え」「欲求」を叶えることは自然と凄いこと&当たり前だと思いませんか?(笑)

あとこれは恋愛にも応用が利くんですよ(ニヤリッ)