冴えない日々が自分は停滞していると考えてしまうのは何故だろうか?
2010年11月1日 Development2010年も残すは2ヶ月となった今日。
寒空とも呼べなくもない、ほんの少し寒い気持ちにさせる空は、どうしてだか「きっと寒いんだ」と考えて心の中に自分専用の絵画を描いてしまうのだろうか。
寒いと思えば、想えれば自分が存在しているという事に気付けるからだろうか、それで果たして己は存在をしていると気付けるのだろうか。
自分は神経症的傾向が強い人間であることは、このブログをなんとなく見ている人でも分かる事だが、自身が本当に神経症であるかどうかは分からない。
分からないという言葉は考えていないことや意見を抱いていない人の答えであるけれども、自分はこの2ヶ月間解決方法が見つかる前から自分を疑っていた。
人を疑うことが何よりも鋭い自分を思い出したからである。
自分は末っ子で、何者に対して無力感を抱き続けて生きてきた人間で、その無力感からどうにかして抜け出そうと自然とし続けたことが人を疑うことと何かを疑うこと、そしてそこから自分の世界を構築していくこと、それでそこに楽しみを見つけた。
…なら、その疑う姿勢を持ち続けることが出来れば早く解決方法が見つかったのではないだろうかと新たに思考をするのだが、その姿勢だけでは生きていくことは難しい、息苦しさを感じ始めてから逆に人を信じるような視点を段々と抱き始めたのだ。それが少し災い苦しさが長く続いた。
しかし、疑う姿勢自体は失わず、特に自分に対しての疑う心は根強くて「自分は神経症ではないだろうか」という考えに至れて尚且つ解決までに導く扉を開けられたのも疑う姿勢だった。
疑考調考、私の為にあるような四字熟語だ。
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