19歳それは社会的精神的に大人でも子供でもない歳。

絶妙な歳を大学の同級生達は今現在経験をしている。
そんなことを思うと、考えると当時の自分のことを思い出す。

苦しかった。只管に苦しかった。

成長が出来ない部分に気が付きつつも自分への社会的期待感は高まっていく中で、自分にはどうする事も出来ない家族システムに平然を保つしかなかったからだ。
どこまでも言っても自分は他の人とは違い、普通と呼ばれる時間や時や場所を過ごすことが出来ないでいた当時の僕は、”発達”しようとする自分に目を背けて毎日油塗れに成りながら、ラジオから流れてくる人生相談と歌謡曲に癒されていた。

       絶望と希望をひとつの心に抱いて過ごしていたのだ。

愛とは何か?愛するとは何か?愛されるとはどういったことなのか?
僕は愛を知らなかった。愛された経験が無かった。これは今でも同じように感じている。

どうしたら人から愛されて、自分がどうしたら人を愛せるのか本当に解らないかった。愛された経験が無い自分が堂にして人を愛せるのか、只管に考えた、思った、失敗した、成功した、間違っていた。でも、止めなかった。

愛されたくて愛したくてどうしようもない気持ちをどうすることも出来なかった。
愛されること愛せる方法を教えてくれることを待ち望んだ。本とラジオから方法を知った。知った僕はようやく人を愛せるのだと考えた。

    しかし、その方法は当時の自分では到底達成が出来る方法ではなかった。

自分に問題があると痛烈に実感をしたからだ、家族システムに問題があると知ったからだ。



僕は努力をした。
何気ない、人が気に留めないような気持ち使い方に努力をした。努力に失敗と間違いと成功が交錯を繰り返した。苦しすぎて涙が出なかった。元々苦しいという感情を殺していた僕に涙は縁遠かった。



僕は普通を目指した。
誰もが自然とかじること、感じられる気持ちを自分で思って無くても口にするようにした。方法としては間違っていると思った。けど出発点としては悪くないと考えた。



「愛とは安心である。なんの心配が要らないことである」

「愛するとは直接的なことではなくて間接的な努力である」


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