精神高潔

2010年12月23日 Development
僕は精神高潔が嫌いだ。

今心理学を学んでいて安定した人格形成には何が必要なのか。
対人コミュニケーションに何を気をつけたら良いのか。

普通と呼ばれる存在と以上と呼ばれる存在の差異は何なのか。
人を愛す為には何が必要か、愛される為には何が必要なのか。

これらをゆっくりと着実に学んでいる。

精神高潔は人の潜在的規範の事だと考え、人は規範を崇高なものと勘違いをし考え方に
囚われる。他者に振りかざした規範は相手にとって脅威でしかならない。

郷は郷に従えという考え方は一過性のものだ。全てを受け入れる必要性は無い。
また自分がよいと感じたコンセプトを取り入れればよい。



例えばの話をしよう。


日本の文化は相手を立てる文化だ。
その中で「相手が居て自分が居る」という考え方がある。

これは一見当たり前のようで美しさを感じる言葉である。
自分を見てくれる観測者が居て人間は自分の存在を認知する事が出来るからだ。

この考え方を遂行出来るのは自分の足で立てた人である。
自分の血や肉を他者に分け与えても立っていられる人が言える言葉である。

これは人を愛せる、愛す事が出来る様に至れたら主張する事が出来る規範である。

さて、まだ立てない人にこの規範と言葉を送ったらどうなるだろうか。
僕は主張をする。個が消滅すると。

更に日本は子供をこどもとして捉えない。
規範を当たり前のように求め、思うが侭にこどもを大人に引き上げようとする。
発達を無視し、どのような結果になろうとも白を切っている。

仮に他者に規範を求める場合、各々の発達に合わせて求めなければならない。

これが出来ずして他者に謙虚を求めると笑えてしまう。
加えて人が他者に求めるものは自分で達成が出来ない事柄を求めるのが往々である。

柔と剛。陰と陽。謙虚と主張の相反する両者を自らに、世界に通す事が出来て初めて大人になれたといえる。精神高潔を遂行できるといえる。



出来ぬものに謙虚さと精神高潔を語る資格は無い。



最後にこれを読んで何か抱けたのならば、それが本当の精神高潔である。


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