Schlußfolgre Kritik
2011年3月21日 Development自分は世界に対して公平であることを行ってきた。
公平である事が誰に対しても幸せに至れると思っていたからである。
自分が苦しい状況下で狂いたくても狂わずに冷静さを保とうと努力をして苦しい上状況を分析をして何故苦しいのか周囲の人達に知らせようと行為してきた。それは感情的に成る事を禁じられてきて、感情的になる事を何よりも恐れたからだ。恐れるのはそのように感じなければ生きて行けなかったからであり、自らの自然な感じ方を自ら抑圧したのである。でなければ、もしかしたらこのブログを更新をしていないのかもしれない。親や兄姉の考え方や発言は権力であり弱者にとって絶対なのである。
自分は自分が知りうる世界に対して公平であたのは、まずは先天的に有していた思いであり後天的な環境によって強化されたのかもしれない。これまでの理性批判はとても人間味が無く恐怖的なものであった。これからの理性批判は感情を有して人間味が溢れるものにしたい。何故ならば神経症的感じ方をある程度脱却が出来て渇望をすることが出来ているのだから活かさない手は無い。
論理と感情を用いて意志し公平であろうと自らの世界に誓ったのだから。
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