レポート
2011年7月13日 Development コメント (2)東京未来大学こども心理学部こども心理学科こども心理専攻
人間存在論レポート
タイトル:コミュニケーションとはなにか。
近年コミュニケーション能力を高めようと様々なメディアによって報じられている中、教育の現場でもコミュニケーションという言葉を目にしたり耳にしたり事欠かない。様々な環境においてコミュニケーションの能力を高めようと人々は躍起になっている。ではコミュニケーションとは一体なんであるのか。
本来コミュニケーションという言葉の意味は英語の【communication】であり、共有するという意味である。共有とは思考や感情や行動を共にするということである。例えば心理学において、コミュニケーションの定義は言語的、非言語的とであり、言語的とは声や発話の事であり、非言語的とはボディランゲージ(顔の表情に手足しぐさや対象との物理的距離感)の事でありる。そして発話者と受け手の両者が相手に対して伝達を行った情報のやり取りが両者に大して作用して相互作用することがコミュニケーションである。
したがって、コミュニケーションは自分と他者(複数)との間に存在する事象であるといえる。どうして人は他者とコミュニケーションをするのか。それは他者と感情や行動を共有し働きかけるによって、自分の精神的、あるいは肉体的によりよく向上させようとする働きを持っていると考えられる。加えてコミュニケーションは外部世界だけの事と考えがちであるが決してそうではない。自分の自己に向かって働きかける行為、内省もコミュニケーションといえると考えられる。内省して自分の考えや行動を吟味し把握する。この一連の働きかけは外部世界となんら変わりがない。しかし、内部世界と外部世界の情報量は圧倒的に外部世界に多く存在しているために、人は外部世界と共有を図ろうとするのである。
少し軸を外して話を進めるが、外部世界と共有する事によって幸せを得られるのか疑問が浮かび上がってくる。人は外部世界の情報に頼って自己の夢や行動を実現していくのではあるが、人の幸せは外部世界にはまったく無く、自己の感情が想起されることによって始まって幸せと感じられると考えるからである。この感情の想起は自己だけでも可能であり、その可能な状態を、例えば日常の中で電車に乗っているときに発達障がいと窺える人が、同じ事柄と窺える独り言を楽しそうに自己にコミュニケーションしていたときに止めさせるのは幸せを奪う行為と考えてもおかしくはない。
しかし、この独り言が個人にとって幸せだとしても周囲の人達は幸せかどうかという新たな問題が出てくるのも事実である。独り言は自己へのコミュニケーションであり外部世界へのコミュニケーションではない。発達障がいの人達が障がいといわれる所以は外部世界とコミュニケーション、つまり感情や行動などの共有が図り辛いと考えられる。発達障がいの人達にとって自己へのコミュニケーションは外へ放たれるはずだったベクトルが内側に向いているだけとも考えられる。
その前提から話を進めると内部世界よりも外部世界には幸せという感情を想起させる刺激が沢山あり、それら刺激を独り言を(幸せを奪っても)体験させようとする障がいを支えている人達は善い人達であると言いかえる事が出来るのではないか。ただ、これはあくまでも一部の視点にでしかならず、障がいを抱えている人を支えている人達が支えているという理由からの権力ともいえる。少なからず幸せを願ってコミュニケーションをさせようとしている。これは本質的に外部世界とコミュニケーションを図ったほうが善いと知っているのか、コミュニケーションを図ったほうが善いと学習した構造であるのか不明慮でもある。
ともなればコミュニケーションは個人と社会の両者が両者の間によってのみ生じる幸せに関わる行為であると主張をすることができる。人は何故コミュニケーション(共有)を図ろうとするのかという本質に迫る事が出来なかったが、迫る事でコミュニケーションは個人の感情に刺激を与えて幸せを想起させる装置だという結論に至った。
まとめ。
コミュニケーションは個人と社会(他者)の両者の相互作用によってのみ生じる幸せを想起させる行為である。
参考文献・引用文献
渡辺智寛 2007『人間存在論』東京未来大学
人間存在論レポート
タイトル:コミュニケーションとはなにか。
近年コミュニケーション能力を高めようと様々なメディアによって報じられている中、教育の現場でもコミュニケーションという言葉を目にしたり耳にしたり事欠かない。様々な環境においてコミュニケーションの能力を高めようと人々は躍起になっている。ではコミュニケーションとは一体なんであるのか。
本来コミュニケーションという言葉の意味は英語の【communication】であり、共有するという意味である。共有とは思考や感情や行動を共にするということである。例えば心理学において、コミュニケーションの定義は言語的、非言語的とであり、言語的とは声や発話の事であり、非言語的とはボディランゲージ(顔の表情に手足しぐさや対象との物理的距離感)の事でありる。そして発話者と受け手の両者が相手に対して伝達を行った情報のやり取りが両者に大して作用して相互作用することがコミュニケーションである。
したがって、コミュニケーションは自分と他者(複数)との間に存在する事象であるといえる。どうして人は他者とコミュニケーションをするのか。それは他者と感情や行動を共有し働きかけるによって、自分の精神的、あるいは肉体的によりよく向上させようとする働きを持っていると考えられる。加えてコミュニケーションは外部世界だけの事と考えがちであるが決してそうではない。自分の自己に向かって働きかける行為、内省もコミュニケーションといえると考えられる。内省して自分の考えや行動を吟味し把握する。この一連の働きかけは外部世界となんら変わりがない。しかし、内部世界と外部世界の情報量は圧倒的に外部世界に多く存在しているために、人は外部世界と共有を図ろうとするのである。
少し軸を外して話を進めるが、外部世界と共有する事によって幸せを得られるのか疑問が浮かび上がってくる。人は外部世界の情報に頼って自己の夢や行動を実現していくのではあるが、人の幸せは外部世界にはまったく無く、自己の感情が想起されることによって始まって幸せと感じられると考えるからである。この感情の想起は自己だけでも可能であり、その可能な状態を、例えば日常の中で電車に乗っているときに発達障がいと窺える人が、同じ事柄と窺える独り言を楽しそうに自己にコミュニケーションしていたときに止めさせるのは幸せを奪う行為と考えてもおかしくはない。
しかし、この独り言が個人にとって幸せだとしても周囲の人達は幸せかどうかという新たな問題が出てくるのも事実である。独り言は自己へのコミュニケーションであり外部世界へのコミュニケーションではない。発達障がいの人達が障がいといわれる所以は外部世界とコミュニケーション、つまり感情や行動などの共有が図り辛いと考えられる。発達障がいの人達にとって自己へのコミュニケーションは外へ放たれるはずだったベクトルが内側に向いているだけとも考えられる。
その前提から話を進めると内部世界よりも外部世界には幸せという感情を想起させる刺激が沢山あり、それら刺激を独り言を(幸せを奪っても)体験させようとする障がいを支えている人達は善い人達であると言いかえる事が出来るのではないか。ただ、これはあくまでも一部の視点にでしかならず、障がいを抱えている人を支えている人達が支えているという理由からの権力ともいえる。少なからず幸せを願ってコミュニケーションをさせようとしている。これは本質的に外部世界とコミュニケーションを図ったほうが善いと知っているのか、コミュニケーションを図ったほうが善いと学習した構造であるのか不明慮でもある。
ともなればコミュニケーションは個人と社会の両者が両者の間によってのみ生じる幸せに関わる行為であると主張をすることができる。人は何故コミュニケーション(共有)を図ろうとするのかという本質に迫る事が出来なかったが、迫る事でコミュニケーションは個人の感情に刺激を与えて幸せを想起させる装置だという結論に至った。
まとめ。
コミュニケーションは個人と社会(他者)の両者の相互作用によってのみ生じる幸せを想起させる行為である。
参考文献・引用文献
渡辺智寛 2007『人間存在論』東京未来大学
コメント
身近なテーマなので、興味を持って読ませてもらいました^-^
すごいー!
大変でしょうけれど、無事に書き上がっていることを願っています>_< ガンバッテー