傷つきをどうするか
2014年7月24日 Development コメント (2)心理的視野狭窄に陥って、言い放った酷い言葉を、言った本人を許すか否か。
極めて個人的な命題だ。
心理の世界を学べば学ぶほど人間は関係性の中で生きていて、それと同時にその関係性に対してどのように応えるかという独我論のような個人が浮き彫りになる。関係性は断絶している。関係性は断絶しているからどのように応えるのか内側に向かって問いを立てて応える営みが、成立させる。つまりコミニュケーションだ。
アイス、このこの場を書いてみてこれを読んでいる人は少なくても3通りの言語解釈が可能だ。冷たい、氷、甘い食べ物、などの皮膚感覚や味覚に変換される。Aというプレゼントを渡したのにBというプレゼントに変わってしまった、けれど我々はその一連の流れを送り手はAを渡したと思い、受けてはBを貰ったと解釈する。
この話を別に言い換えると、私は困っている人にお米をあげた。受け取った人はお米は受け取ったけど、受け取った自分はなんて幸せ者なのだろうと解釈する。コミュニケーションの成立を見ていくと独我論のような極めて個人的な営みに思えてならない。
つまり、人を許すかどうかという話は極めて受けての命題であり、言った本人ではない。しかし、理性判断力を欠いたり失っている人の、例えば認知症や統合失調症などの病理によって問題行動と暴言を受けた時に、病理によってなのか、人格によって放たれたものなのか受け手は判断しなければならない。
この問題。作り上げた問題に応えるのかによって、今後の人生のあり方は大きく変わるだろう。極端に言えば人を傷つける時、綿で嬲るのか、拳で痛めつけるのか。
この記事に載せた私の情動は理解されない。
理解されないなんてとんでもないと感じた人の理解に私は苦しむ。
極めて個人的な命題だ。
心理の世界を学べば学ぶほど人間は関係性の中で生きていて、それと同時にその関係性に対してどのように応えるかという独我論のような個人が浮き彫りになる。関係性は断絶している。関係性は断絶しているからどのように応えるのか内側に向かって問いを立てて応える営みが、成立させる。つまりコミニュケーションだ。
アイス、このこの場を書いてみてこれを読んでいる人は少なくても3通りの言語解釈が可能だ。冷たい、氷、甘い食べ物、などの皮膚感覚や味覚に変換される。Aというプレゼントを渡したのにBというプレゼントに変わってしまった、けれど我々はその一連の流れを送り手はAを渡したと思い、受けてはBを貰ったと解釈する。
この話を別に言い換えると、私は困っている人にお米をあげた。受け取った人はお米は受け取ったけど、受け取った自分はなんて幸せ者なのだろうと解釈する。コミュニケーションの成立を見ていくと独我論のような極めて個人的な営みに思えてならない。
つまり、人を許すかどうかという話は極めて受けての命題であり、言った本人ではない。しかし、理性判断力を欠いたり失っている人の、例えば認知症や統合失調症などの病理によって問題行動と暴言を受けた時に、病理によってなのか、人格によって放たれたものなのか受け手は判断しなければならない。
この問題。作り上げた問題に応えるのかによって、今後の人生のあり方は大きく変わるだろう。極端に言えば人を傷つける時、綿で嬲るのか、拳で痛めつけるのか。
この記事に載せた私の情動は理解されない。
理解されないなんてとんでもないと感じた人の理解に私は苦しむ。
コメント
たとえば「○○という(尤もな・仕方ない)理由があるから本当なら許せないことでも許さなければ」とするのは、本当は許せない(許したくない)自分の感情を無視してしまうことで、それでスッキリできるとはとても思えないです。
理由次第で、怒りや悲しみが解けるのなら、それならいいのですが…。
一晩経って、上の自分のコメントは少し感情論に走り過ぎていたかも、と反省しています。
「許せないことを許す」ことが理性で考え抜いた結論であったとしても、そうしようと自分の意志で決めたのなら、それは大きな心の成長になるでしょう。
それまでに時間は掛かってもいいのだとも思います。
日々を生きて行くうちにいつか投げやりな気持ちじゃなく自然と「もういいかな」と思える日がやってくるかもしれません。
自分が傷つけられても、傷付けた相手の身になって考えようとするsaphirさんの姿勢に偉きいものを感じました。