友達に無理を言って、信州松本への旅行を日帰りから1泊2日に変えてもらった。
松本に行きたかった訳は、僕が小説『神様のカルテ』の愛好家で、作品の雰囲気を感じたかったから。快晴に恵まれた信州は綺麗で、夜空に中に照明に照らされた国宝の松本城は厳かにあって、飲み屋が立ち並ぶ川沿いは石畳みのように舗装されていて、趣きがある。四柱神社は広くて澄んだような空気があって、深志神社の方では七五三詣りにやってきた親子やお宮参りに連れてこられた赤子が居たりと、地域の人たちに愛されているようで好ましかった。

銘酒が揃うことで知られている、九兵衛こと十兵衛へは残念ながら入店を断念した。
店先の張り紙に「日本酒3合飲める方、歓迎」とあって、自分は良かったのだが友達の一人は梅酒しか飲めない男で、彼を置いてはいけないと思った配慮から。しかし、無理を言って泊りにしてもらったのは、この店に入りたかったからに他ならない。入店を断念した判断は自分で友達のせいではない。怒りはしなかったけれど、なぜ飲めるようにならないのかと残念に思った。

少し脱線するけれど、人の食べ物への態度と物事への態度は同列のように思える。
僕は好き嫌いがなく料理を食べられる。ただ一人暮らしをしてからは食べられる物を食べていることは否めない。しかし、人物の味と雰囲気を作り上げる実家の家庭や食卓では、好き嫌いがなく育てられた。思い出してみれば豚肉や牛肉のステーキに添えられた硬いキャベツの芯を特に味付けもなく、食べさせられた。硬くて飲み込むのに苦慮するから、食べられるステーキを早々に平らげてしまったために、残るのは味がしないキャベツだけで、それをぼぉっと眺めて、父親に「残していいか」と聴いたら食べろという。結局残さずに食べ終えたけれど、悲しかったことを思い出した。食卓に出された親子丼は当たり外れがあって、大抵腐りかけた鳥の胸肉を使っていた物だから、美味しくなかった。鳥の臭みが卵の豊かな甘みとともに口の中を占領する、嫌でたまらなかったが、これを食べなければ、他に食べる物がなく。訴えたところで食べなくてもいいと一蹴されて、凹むのが関の山で段々と自分が好きな食べ物がわからなくなった。

今でも好きな食べ物はなにかと尋ねられるときは、頭が真っ白になって応えられなくなる。好き嫌いがないというのは好きか嫌いかの境界線を剥奪されることに等しいのかもしれない。僕には好き嫌いなどの訴えを聴き入られなかった経緯がある。ただ、悪いことだけではないのかもしれない。誰しも最初は特徴がある料理へは距離を取る物だと思う。それに対して自分はそこにある境界線を無くしていける。特にお酒はその類の物であるし、最初はアルコール耐性がどれほどあるのか分からない上に、味自体の好みもよく判らないはず。ビールはやたら苦い飲み物で、ウォッカやジンは割り材をつかって甘く飲みやすくしてある分、深酒を誘発する。ウィスキーも苦いんだか甘いのかよくわからない。お酒を楽しく飲めるようになるには、お酒を段々と長いこと飲んでいかなければ解らない。難く述べれば、訓練しないと楽しめない。

食べ物の好き嫌いがあるのは好ましいことだと思う。それと同じように食べられそうだと思えた物へ挑戦するのは良いことで必要だと思う。


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